ニーチェ最後の著作『この人を見よ』から解説するニーチェの思想

ニーチェ最後の著作『この人を見よ』から解説するニーチェの思想
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大学1年の時に哲学の講義でニーチェを扱ったのが、僕とニーチェの著作との出会いだったように思う。
ニーチェ発狂の前年に出した最後の著作『この人を見よ』の、それも最後の章『なぜ私は一個の運命であるのか』を講義で取り扱ったのだが、それは19歳の青年の哲学観に衝撃を与えるには十分だった。

『この人を見よ』『ツァラトゥストラはこう言った』『善悪の彼岸』『人間的、あまりに人間的』を読み終え、満足感とともにそれ以上のニーチェの著作を読むことからは遠ざかったが、2年の時を超え、再び『この人を見よ』を読み終えた今、この著作は未だに僕の哲学観に衝撃をもたらした。

『この人を見よ』は初めてニーチェを読むのに最適な本だと感じる。
この本には、ニーチェの思想がわかりやすくまとめられているのだ。

 

ニーチェが否定したこと

まず第一に私が否定するのは、これまで最高と看做されてきたタイプの人間、善人、善意の人、善行の人である。第二に私が否定するのは、道徳の一種にすぎないのに道徳そのものとして通用して支配権を獲得するに至ったあのデカタンス道徳、手っ取り早くいえばキリスト教道徳である。

ここにはっきりと書かれているように、ニーチェは、「善人」と「キリスト教道徳」を否定している。

善人とは、「弱い者を助ける人」である。
ニーチェは弱い者を助けることが自然に背く行為であるとして否定しているのである。ニーチェは強い人が生き残り弱い人はいなくなるという自然淘汰を肯定しているのだ。

これらの根本にあるニーチェの思想は「同情」をするなということである。

同情の克服を私は高貴な徳の一つに数えている。

ニーチェによれば同情というのは弱者を救うためのキリスト教道徳であり、これを良いと思わないことが高貴な徳であるというのである。
自然の摂理によれば、強者が残り弱者は滅びるべきなので、弱者を守ろうとする心の働きは自然に反するもので尊ばれるべきものではないということだ。

現実的に考えて、同情を克服することは容易なことではない。
それは「かわいそうだな」と思うことを止めるということだ。つまり「弱いもの」を否定するということだ。

物心ついた時から、「弱いものは救うべきである」というキリスト教道徳を教え込まれている現代の日本人(また世界の多くの人々)が、「弱くてはいけない」と考えることなど、そう簡単にできるだろうか?
例えば、こう尋ねることが出来るだろう。あなたは、「アンパンマン」を否定できるか?
困っている人に自分の顔をちぎって渡すという、アンパンマンの「同情」、アンパンマンの「善」を否定できるか?

「同情」の否定、これが僕が思うニーチェ思想の一つのクライマックスであり、一つの最難関の提案である。

そして、「キリスト教道徳」とは「神」「霊魂」「徳」「罪」「彼岸」「真理」「永遠の生」などの言葉で語られる者である。つまり、「神に祈れば、あの世で永遠に生きられる」といった道徳観である。
ニーチェは、これを現在の生命を重要視していないとして否定している。

 

ニーチェが提案したこと

また、ニーチェが大切だと思うことは、こういった「理想的なこと」ではなく、「現実的(自然)なこと」であると言える。つまり、「栄養の選択」「土地と風土の選択」「休養の選択」といった、現代ではどうでもいいと思われているようなことこそ、人間にとって重要なことであると考えているのだ。

栄養の問題に関して、ニーチェが具体的に言っているのは以下のようなことである。

(以下要約)

酒は良くない。水を飲むべきだ。
大食のの方が、少食すぎるよりも、消化しやすい。
長たらしい食事や間食は良くない。コーヒーはいけない。
紅茶は朝だけなら健康にいい。紅茶の濃さに関しては各人に自分の適量というものがある。
出来るだけ腰掛けないようにすること。自由な運動の最中に生まれたのではないような思想は信用しないこと。長っ尻は精霊に背く本当の罪である。

(要約ここまで)

土地と風土の問題に関して、ニーチェは、人は自分に合った土地や風土の元で生活するべきであると言っている。

天才の成立は乾燥した空気や澄み切った空を条件としている

とニーチェは述べている。

ニーチェが休養であるとしたものは、読書であったり、音楽家ヴァーグナーと過ごした日々である。

以上のようにサクサクと進めてきたが、本著ではもっと色々と解説しながら書かれているので、興味のある人は、ぜひ読んでみてほしい。

また、ニーチェは「人はいかにして自分自身になるか」と言う本作の副題についても言及している。

大きな使命を背負った人間が自分自身とまともに面と向かうことは危険である、と彼は述べる。そして、その保護手段として隣人愛を例外的に認めるというのである。

隣人愛、すなわち他人と他物のために生きるといった程度のことが、最も堅固な自我性を維持するための保護手段になりうるのである。これは私が自分の通則と信念に反して、「無私の」衝動に味方をする例外的ケースだといっていい。

確かに、自我の保護、つまり「何のために自分は生きているのか」という質問に対するある種の「こじつけ」のために、「隣人愛」を出してくることには必然性を感じ得ないだろう。

ニーチェが提案しているこれらのことは、取るに足りないことだと読者は感じるだろうか。そこでニーチェは述べる。

栄養、土地、気候、休養、すなわち我欲に関する決議論のすべては、じつは、従来重要とみなされて来たあらゆる事柄よりも、はるかに想像を絶して重要なのである。人々は今まさにこの点において、頭を切り換えることを始めなくてはならないときであろう。

ニーチェは続いて「神」「霊魂」「徳」「罪」「彼岸」「真理」「永遠の生」などの概念のすべてが嘘である、と述べる。
これらキリスト教的な理想論を捨て、我欲と真剣に向き合うべきであるとニーチェは言うのだ。

人間の偉大さを言い表す決まった言い方は、運命愛である。
すなわち、何事も現にそれがあるのとは別様で欲しいとは思わぬこと。未来に向かっても、過去に向かっても、そして永劫にわたっても絶対にそう欲しないこと。
必然を単に耐え忍ぶだけではないのだ。いわんやそれを隠蔽することではさらさらない。あらゆる理想主義は、必然から逃げている嘘いつわりに他ならぬ。そうではなく、必然を愛すること…

以上の引用は、「なぜ私はかくも怜悧なのか」という章の最後だが、これは実にニーチェが「心理学者」らしい一面を見せている部分のように思える。

「必然を愛すること」というキリスト教道徳が染み付いた現代人でも「確かにそれはそうだ」と納得するようなフレーズの背後には、キリスト教道徳の否定が暗に含まれているのである。

ニーチェの道徳も、また一つの道徳観であり、それは悪として直ちに排除されうるものではないのである。

 

ニーチェを読み、私が考えたこと

ニーチェは序言の中で、ニーチェの分身とも言えるであろうツァラトゥストラの以下の言葉を引用している。

今、私はお前たちに命令する。私を見失い、お前たち自身を発見せよ。お前たちがこぞって私を否定したとき、はじめて私は、お前たちの許に戻って来よう。

ニーチェは、我々に本当は何を求めているのだろうか。
思うに、キリスト教道徳の否定は、ニーチェが我々に求めていることの始まりに過ぎない。
実際に、ニーチェはキリスト教道徳を「道徳の一種にすぎないのに道徳そのものとして通用して支配権を獲得するに至ったあのデカタンス道徳」と記している。

ポイントはキリスト教道徳を道徳の一種として認めている側面があるということだ。また、ニーチェの言う道徳観、一種の自然回帰が、全人類にとって正当な道徳観であると言う保証はない。
ただ、盲目的にキリスト教道徳を信じ、考えることを全人類にやめさせているという現実に対して、ニーチェは警鐘を鳴らし、新たな道徳観を打ち立てた。

ニーチェが伝えていることは、盲目にならず自分の道徳観を考えることが必要だということである。
自然淘汰を肯定するニーチェ的道徳の改良、その先に何があるのか、または自分の中にどのような哲学があるのかは、まだ僕にはわからない。
そして、それはこの記事によって各人が得るものではなく、すべての人が自分の力で見つけ出すものである。

 

最後に

冒頭にも述べたが、『この人を見よ』は初めてニーチェを読むのに最適な本だと感じる。

実際に読むときには、「なぜ私はかくも良い本を書くのか」という章で、様々なニーチェの書籍を自分自身で紹介している箇所は飛ばして読んでも良いだろう。その書籍を読んだ後に、戻ってきて読むのが良いのではないかと思う。

僕が読んだ訳書は以下のものです。

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